2013/05/13

[感想文]リチャード・ブローティガン「アメリカの鱒釣り」


 広くネットに流布しているコピペに次のようなものがある。

リチャード・ブローティガンは、「アメリカの鱒釣り」を書く際、 最後がマヨネーズの作り方で終わる小説が書きたかったと書いてた

デマである。これを最初に言った人はうろ覚えで書いたのだろうが、誤りが訂正されないまま流布されている。

わたしは、ずっと、マヨネーズという言葉で終わる本を書きたいと思っていた

が正しい。
だから1960年代アメリカのカントリー風手作りマヨネーズのレシピが知りたい人がいればだが、その人は別の本を選んだほうがよいと思う。

はじめに言っておくと、ほとんどの人が「何コレ訳わかんねえ」という感想しか持ちようのない感じの本なので、手に取るならばそういうものだと思っておくのがいいだろう。
ブローティガンを評して「村上春樹を始めとする現代日本の小説家に影響を与えた~」とかよく見かけるが、少なくとも村上春樹の小説は一応始まりと終わりがあるし、若い女が出てきて主人公とセックスもする。もっと良心的である。

しかしながら、とりとめのない描写とぶっ飛んだ比喩のような特徴は、確かに現代日本の小説家に受け継がれているように感じる。

一年坊主がむこうを向くと、背中にアメリカの鱒釣りと書いてやった。二人目の一年坊主の背中で、それはさらにいい感じだった。わたしたちはすっかり感心してしまった。アメリカの鱒釣り。確かにこれは一年坊主たちを、なんというか、ずっと格好良くみせたのだ。かれらを完成し、威厳すら与えた。
「アメリカの鱒釣りテロリスト」より

あるエピソードでは主人公は実際に鱒釣りをするために旅をする。あるエピソードは<アメリカの鱒釣り>と呼ばれる人物についての描写に終始する。またあるエピソードでは、アメリカの鱒釣りは小学生のいたずら書きである。
これは「アメリカの鱒釣り(TROUT FISHING IN AMERICA)」という概念にまつわる物語であって、アメリカにおける鱒釣りについての物語ではない。
アメリカの鱒釣り文化について触れたい人はリバー・ランズ・スルー・イットでも見ていたほうが良い。この作品の中では、誰もまじめに鱒釣りをしない。

さて、本書はあとがきが振るっている。
よくある翻訳者によるあとがきと言えば、「リチャード・ブローディガンは1935年、ワシントン州に生まれた。」的な著者の紹介から始まって、この作品が書かれた時期や文化的背景を紹介するものである。
しかし本書のあとがきは、なぜか本編の文体模写である。舞台として描かれたサンフランシスコで、翻訳者の藤本和子氏が老人や老婆に「このシナ人が!」と罵られた場面が延々と描写されている。あまりに自由すぎるあとがきで、これは必見だと個人的には思う。かなり面白かった。

あとがきを読むと少し見えてくるが、「アメリカの鱒釣り」の根底には、メルヴィルの「白鯨」であったり、ヘミングウェイが象徴するマッチョイズム的なものが流れているようだ。そういう文化的背景が皮膚感覚として染み付いていれば、何か感じるところがあるのかもしれない。個人的には何も感じなかったが。

また、日本人にとって「釣りバカ日誌」が単なる釣りの話ではないように(げんに釣りをしない人々でさえ、わざわざ映画館へ足を運ぶ作品なのである)、フライ・フィッシングもアメリカ人にとっては単なる娯楽以上の、何らかの象徴ではないかと思っているが、どうもよくわからない。

よくわからないなりに面白いといえば面白い作品だった。
マヨネーズ。

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